明洞

odk2004-10-04

2004年9月8日(水)午後6時
夜は、かっちゃんに観光地らしいところも見てもらおうとミョンドン(明洞)に行く。彼は、CDショップで解禁になった日本のCDをみる。わたしは、繁華街で店を選ぶのは苦手だ。明洞で知っている食堂がない。ここで、安くておいしい焼肉店を選ぶ自信がない。夕食(写真)は、明洞餃子のカルグクス(手打ち煮込みうどん)と餃子。うどんは茹で上げないで、粉のついたまま具といっしょにスープで煮込む。この店は、チキンスープ。キムチはお代わり自由というか皿があくとどさっと入れてくれる。辛口キムチ。ひー、おいしいけど口が火を噴くように辛い。うどん2人前と餃子ひとつで16500ウォン。
 食後、明洞大聖堂をみて南大門市場を見て廻る。路地に屋台が出て、縦横に商店が延々と続く。もう、店店を覗いてまわる気持ちがあまりない。韓国のデパートというのに入ってみる。お互いの有り金を数えて、宿へ帰る。

西大門独立記念公園の独立館

odk2004-10-03

 2004年9月8日(水)午後4時
 西大門刑務所歴史館では、展示内容が重く、朝からの歩き通しにくわえて、水曜集会が立ちづくめで、その疲れが出てきた。歴史館を出た売店で千ウォンのアイスクリームを買って休んだ。まだ、時間はある。近くに、フランスの凱旋門を模した独立門があるはずだと探しに立った。歩いていると韓国の木造建築で何かのパンフレットに載っていた建物があった。地下に降りる階段がある。階段の途中に若い女性がいた。何か展示しているのか。その女性がハングルでこちらに話しかけてきた。建物の関係者のようだった。入り口のガラス戸に催し物のポスターが張ってあったので、それと建物の内部を指差した。ハングルはわからない。自分を指差して「イルボン(日本人)」といった。中から30代ぐらいの男性職員を連れてきた。刑務所歴史館のパンフレットと出して指で見てきたことを伝えた。かっチャンが英語で話した。「中が見たいのか?」ときかれたようにおもう。「OK」その職員が、かぎ束をもって外にでてきた。えっ、何。事務所の中を見せてくれるのではないのか。階段を上がって木造建築の正面に建った。開き戸のかぎを開けて中に入った。「コリアン、ヤスクニ。」と彼はいった。後からパンフレットを調べると、この建物は、古くは朝鮮時代に中国からの使臣に歓送の儀式を行ったもので、1897年に韓国の民族独立運動を行った独立協会が建物を改築し、そのときの皇太子(純宗)から「独立館」という掛板を下賜されたものだった。そして、1898年末まで、民族の自主独立と民族文化について自由に言論を話し、教育をどう伸ばすのか、産業をどう起こすのか、毎週討論会を開いていた。しかし、日本支配の命令により強制撤去された建物の復元建築だった。中には、びっしり人の名前の刻まれた板が立っている。日本の支配者により亡くなった殉国烈士の位牌だった。
「ハウ・メニー?」「2372。」「オールウェイ・アーミーズ・キル?」「イエス。」
 突然に、意外なもの。韓国の靖国に対面をした。そして突然の訪問にこころよく中を見せていただいたことに感謝の気持ちがいっぱいになった。「サンキュー。」来てよかった。
 長い一日に、疲れと満足感があった。

 

処刑場

odk2004-09-27

2004年9月8日(水)午後3時 西大門刑務所歴史館の中
 刑務所の展示室、監獄と廻って、処刑場へ出た。日本が1923年に建てた木造50平方メートルの処刑だけに使われた建物。周囲は高さ5メートルのレンガの塀に四方を囲み、中が見えないようにされている。内部は開閉式の床に椅子が置かれ、首につるための太い縄が下がっている。前面には、死刑執行の確認をする者たちが使った長いすと長机がある。死刑台の下は地下になっており死体は、地下から階段で裏から別に出せるようになっている。全国から死刑宣告を受けた独立運動家の死刑が行われた場所が、当時の形で保存されている。暑い日に行ったのだが、そこだけヒンヤリしている。多くの受刑者が拷問を受け、死刑執行をされたはずだが、敗戦時に日本人関係者が引き上げるときに受刑記録資料をほとんど焼いてしまったので、誰が、何名がということがはっきりしない。はっきり分かっている方だけの追悼碑が建てられている。

(写真は処刑場近くの監獄)  

西大門刑務所歴史館

odk2004-09-26

2004年9月8日(水)午後2時
 水曜集会が午後1時過ぎに済むと近くの食堂で集会参加者がいっしょに昼食をとった。メニューが読めないのでおまかせしたら、ソルンロタン(牛の足、ひざ、脚骨などをじっくり煮込んだスープ)がでてきた。それほど味は濃くないが、しみじみおいしかった。チラシをもらった朴さんから日本語で「あなたは宇部をしっているか。」と尋ねられた。「山口県ですか。」「そうだ。その山口県宇部の炭鉱に多くの朝鮮人が連れて行かれて、日本人では危なくて、掘れない海の下の炭鉱だ。事故で多くの朝鮮人が死んだ。日本は誰も謝っとらん。韓国のテレビを連れて行って、ちゃんと謝罪してほしいといったんだ」と宇部市の海や市役所の中の写真を見せていただいた。

 水曜集会のみなさんとはそこで別れて、私たちは植民地時代の刑務所が博物館となっている「西大門刑務所歴史館」に向かった。朴さんはタクシーがよいといわれたが、地下鉄で1駅離れた独立門駅で降り、道に少し迷った。名古屋の韓国観光公社でいただいた歴史館の日本語パンフレット(A4変形カラー45ページもある分厚いもの)を見ながら中をまわった。大人1100ウォン

 1908年京城監獄として建てられ、植民地支配後、名前を西大門監獄から西大門刑務所に名を変え、民族独立運動政治犯を投獄した。拷問、飢餓による獄死、処刑がされた。獄舎は15棟あったが、そのうち7棟だけを原型どおり保存して1998年歴史館として開館した。当時の拷問と獄中生活が分かるように壁棺、独房など実際に中に入れるように展示している。

 拷問室については、棒で殴り、逆さまに吊り下げたり、鼻や口に唐辛子水を入れる。手足を縛って全身を熱いコテで焼く、電気でしびれさす、つめの間に串をさす、女性には性的な辱めを行うなどマネキンを使って音入りで再現をしている。

 柳寛順は朝鮮のジャンヌダルクともいわれている少女で、1919年3月1日に起きた独立万歳運動、梨花学堂に休校令が出されると、故郷に帰って4月1日天安並川のアネウ市場で独立万歳運動を主導した。そして、逮捕3年の刑を受け、1919年西大門監獄に移され、京城復審裁判所で法廷侮辱罪が加わり7年刑を宣告された。それでも監獄の中で毎朝、毎晩独立万歳を叫び
、そのたびに拷問を受けたが、意思をまげなかった。1920年3月1日李信愛などいっしょに収監されている者と獄中デモをおこなった。その後、柳寛順は地下の独房に隔離され、拷問と栄養失調のため1920年10月12日獄死した。このような人たちを殉国烈士と呼んでいる。

 再現はそのとおりなのだろうが、センサーで突然、拷問室が明るくなり、悲鳴が聞こえるのは怖いです。かっちゃんに先に歩いてもらった。(写真は西大門歴史館の入り口)

「従軍慰安婦」

odk2004-09-25

2004年9月8日(水)午後0時50分

日本軍が従軍慰安婦という女性を連れていたことは知られていた。しかし、社会問題とされたのは1990年代からだ。1988年ソウルでオリンピックが開かれたころ、ようやく民主化がされ、韓国民が自由に発言ができるようになった。
 1990年5月 韓国の女性団体がノテウ大統領の訪日に合わせて「挺身隊」問題の謝罪と補償を求める共同声明を発表した。
 1990年6月6日 参議院予算委員会の政府側答弁で「従軍慰安婦は民間の業者が連れているので、調査をするというのはできかねる。」と発言している。
 1991年12月3日 3人の韓国元慰安婦が日本政府の謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴した。
 1992年1月11日 吉見義明さんが従軍慰安婦の日本軍関与を示す6点の証拠を発見し、新聞発表をした。
 1992年1月12日 加藤紘一官房長官が日本軍の関与を認めた。
 1992年1月17日 宮沢喜一首相が訪韓し、日韓首脳会談で公式に謝罪した。
 1992年8月 4日 日本政府は資料調査と韓国人元慰安婦からの聞き取りにより調査結果を発表した。
 1.慰安所の設置・管理・慰安婦の移送には日本軍が直接あるいは間接に関与した。
 2.慰安婦の募集には、甘言・強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲が直接これに加担したこともあった。
 3.慰安所での生活は強制的な状況の下で痛ましいものであった。
 4.朝鮮半島出身の慰安婦の募集・移送・管理なども甘言・強圧による総じて本人たちの意思に反しておこなわれた。
 5.従軍慰安婦問題は当事者の国の関与の下に多くの女性の名誉と尊厳を傷つけた。
 6.元慰安婦の方々には心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
岩波新書 吉見義明著「従軍慰安婦」を参考にさせていただきました。)

 2004年のこのとき、わたしは、「日本政府の謝罪は済んでいいるのではないのか?」「だまして連れてきて、強制的に兵の相手をさせて、従軍慰安婦と呼んでいいのか?」と二つの疑問があった。しかし、ここでは聞けなかった。

 結局、日本に帰ったあと、「旧日本軍の性的被害を支える会」の例会に行き、前田朗さん(東京造形大教授。刑事法)の国連人権小委員会の傍聴報告のあとに尋ねた。
odk「従軍慰安婦問題は日本政府の謝罪済みなのではないですか。」
前田「国会決議などの、正式文書としては謝罪はされていないのです。首相の発言はイン・マイ・パーソナル・フィーリングといったかな。国際法違反、戦争犯罪としての罪の承認、謝罪、賠償はされていないのです。」
odk「賠償問題は日韓により一括補償済みなのではないのですか。」
前田「1999年国連の人権小委員会で軍性奴隷は国家間の取引では解決せずに個人の戦争責任は残るという報告がされています。日本はこの原則に従っていないのです。それが、強制力を持たない事から、補償がされていないわけです。」
odk「従軍慰安婦という呼び方でよいのでしょうか(前田さんのレポートにはSexul Slavery by Japanese Armyとあった。)。」
支える会「この言葉で使われてきているので、はじめは仕方がないとおもいます。しかし、被害者の立場を考えて、私たちが使うことはよくないでしょう。代わるべき言葉がなく困っていますが、呼び方にこだわってもはじまりません。ただ、私たちがこの問題の展示をしていると昔、戦争で兵隊だった方が、あった、あったと懐かしがるんです。自分が相手のことを傷つけているという気持ちがないんですね。」
前田「よく戦争だから何をしてもしかたがないと思ってみえる方がいる。戦争中の行為についても刑法も国際法も違反行為は処罰の対象になることを忘れみえる。北朝鮮の拉致も刑法違反の条項があるんです。」

 インターネットで「従軍慰安婦」、「ナヌムの家」とキーワードで検索すると「どの国でもやっていることだ。」「すでに謝罪済みだ。日本は萎縮してしまっている。」読んでいて混乱してしまい、同行のかっちゃんには問題の流れを話すことができなかった。現場をみて自分で判断してもらうしかなかった。
(写真前列は、日本大使館前の水曜集会での元慰安婦(ハルモニ)たち。後列は神戸女学院の学生たち)

神戸女学院 石川ゼミ登場

odk2004-09-24

2004年9月8日(水)午後0時30分過ぎ 韓国ソウル市。日本大使館前。
旧日本軍による従軍慰安婦とされたハルモニたちの日本政府への水曜抗議集会の続き。

毎週水曜日に日本大使館前の道路でハルモニ(ナヌムの家に住んでいる方もそうでない方もみえる)と挺身隊問題協議会が水曜集会を正午ぐらいから開く。大使館は韓国の警察に警備されていて誰もでてこない。正しくは公安警察の職員は出ているのかもしれないが。
 集会側が抗議のメッセージを読み、その日に参加した者も発言をする。日本人弁護士に続いて、神戸女学院石川ゼミ生が登場した。(公の場での声明については実名で書きます。)「私たちは、従軍慰安婦問題を学んで韓国にやってきた。昨日はナヌムの家に泊まり、ハルモニと話した。そして、今日この集会に参加した。日本人として日本の政府に謝罪をしてほしい。」と代表が日本語をハングルに訳しながら発言をした。

平和憲法を守る弁護士・市民の会

odk2004-09-23

2004年9月8日(水)日本大使館前の水曜集会のつづき(日本からきた平和を守る弁護士・市民の会がチラシを配り、日本語とハングルでチラシの内容を読み上げた。)

  日本の弁護士・市民と一緒に日本国憲法9条を守りましょう

 韓国市民の皆さん、こんにちは。私たちは、日本からやってきた平和を愛する弁護士と市民のグループです。
 みなさんは、日本国憲法9条を知っていますか?それは、武器や軍隊を持たない、他国を攻撃しない、という条項です。日本はかつてアジア太平洋戦争において、アジア諸国を侵略し、韓国を植民地支配した歴史をもちますが、憲法9条はその反省のもとに掲げた非戦の精神で、1946年に制定されました。日本がアジア各国と結んだ国際公約ともいえる内容です。現在、憲法9条は世界の市民平和運動の指針ともなっています。実は、アジアにおける安全保障を作り上げる上でも重要な指針です。

 それにもかかわらず、日本では、憲法9条を改悪しようという動きが活発化しています。政府は、全世界を支配しようとするアメリカに追随するため、アメリカとの軍事同盟を強化し、自衛隊を海外派兵させるために憲法9条を変えようとしているのです。韓国と同様に、日本も自衛隊イラクに派兵していますが、このような派兵をいつでもできるように憲法を改悪しようとしているのです。

 私たち弁護士・市民は、アメリカとの軍事同盟を強化することよりも、アジアの人々との平和の共同体を作っていくことを希望しています。私たちは、韓国の皆さんの民主化闘争、反戦平和運動を心から尊敬しています。

 いま経済面や文化面で、韓国日本の関係は増してきました。これからは、民主化・平和の問題で韓国と日本の市民が連帯する時代となりました。両国民が真の友人となるときがきました。日本の弁護士・市民と一緒に9条を守っていく運動に参加して下さい。

日本国憲法9条>第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2004年9月8日
平和憲法をまもる弁護士・市民の会>
連絡先 弁護士 大山勇一 cfd98600@syd.odn.ne.jp
Tel+81-3-3988-4866 fax+81-3-3986-9018