秀吉の朝鮮侵略

李舜臣将軍像

 2004年9月7日に日本の朝鮮侵略の史跡を見てくる予定です。行く前に、朝鮮の歴史を中学、高校の教科書でおさらいをしました。記念碑や銅像を見てもどのような状況で事件がおきたのかが分からないとしかたがないからです。図書館には韓国の歴史教科書もありましたが、日本の教科書だけでまとめをつくりました。初めに、朝鮮の古い史跡を焼き尽くしてしまった秀吉の侵略までです。(写真はソウル光化門の南にある李舜臣将軍像)
 朝鮮半島は日本の天皇制と同じように部族国家から王朝国家に進み、新羅王朝、高麗王朝、朝鮮王朝と国王の治める時代が続きました。朝鮮王朝は1392年から1910年までの間でですが、その後は日本が植民地支配をして、日本の敗戦まで日帝時代とよばれています。朝鮮半島は、中国と日本にはさまれた位置にあるため、いつも両国の力関係に影響され続けてきました。逆に、日本の宗教、政治、文化も中国、朝鮮をとおして輸入されたものがおおいです。奈良の古寺をまわって韓国の古刹をみると建物の雰囲気が似ていることにきがつきます。しかし、韓国の古い建物のほとんどが豊臣秀吉の侵略により焼かれて残っていません。樹齢千年をこえる木もありません。絶えず侵略に苦しんできた半島の歴史があります。
 封建時代とよばれる王や部族長が土地も人間も所有する時代がありました。16世紀後半の東アジアの国際関係は、中国を中心とする伝統的な国際秩序が明王朝の国力衰退により変化しつつありました。日本で全国を統一した秀吉は、国内だけでは満足せずにゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)などに対し、従属と入貢を求めました。
 1587(天正15)年、秀吉は対馬の宗氏をとおして、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めた。そして、朝鮮がこれを拒否すると肥前名護屋に本陣を築き出兵の準備をはじめた。
 1592(文禄元){文禄の役}年15万余の大軍を派兵し、釜山(プサン)に上陸、新兵器の威力などによって日本軍は漢城(現ソウル)を落としいれ、さらに、平壌(現ピョンヤン)も占領した。しかし、李舜臣(イスンシン)のひきいる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗、明の援軍により日本軍は補給路をたたれ、戦局はしだいに不利になった。そのため、秀吉は、明との講和をはかって休戦した。
 1593(文禄2)年からはじまった和平交渉では、明の降伏、朝鮮南部の割譲などの秀吉の要求は正確に伝達されなかった。
 1596(文禄5)年、明は秀吉に使者を派遣し、「汝を封じて日本国王となし」その朝貢をゆるすという態度をとったので交渉は決裂した。
 1597(慶長2)年{慶長の役}秀吉は、朝鮮にふたたび14万余の派兵をした。しかし、日本軍は最初から苦戦をしいられた。
 1598(慶長3)年、秀吉病死。朝鮮から日本軍を撤兵した。前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人びとを戦火にまきこみ、多くの被害をあたえた。明も国力がおとろえ、日本でもぼう大な戦費と兵力を無駄につかい豊臣政権を衰退させる原因となった。