李舜臣将軍像

odk2004-09-19

 2004年9月8日水曜日 午後9時ごろ
 タプゴル公園を東に30分ほど歩き、世宗路の入り口、広い道路の中央にイスンシン将軍のブロンズ像が立つ。忠武李舜臣将軍。ソウルやプサンに忠武路がありに韓国には李舜臣将軍の像が300以上ある。彼は、1545年、首都漢城(今のソウル)で貧しい両班(文官、武官の身分制度)の三男として生まれ、科挙制度では出世に有利な文科でなく武科を32歳で合格し、全羅道の左水使(海軍司令官)に抜擢された。朝鮮では16世紀に入り社会的混乱により、国防力が次第に弱体化して、倭寇の騒乱が絶えず生じていた。
 このころ、明の国力が衰退し、中国を中心とする東アジアの国際関係が変わりつつあった。全国を統一した秀吉は、この東アジアのなかで日本を中心とする支配をめざして、ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)などに対して服属と入貢を求めた。
 1587年、秀吉は、対馬の宗氏をとおして、李王朝に対して入貢と明出兵の先導を求めた。しかし、間にたった対馬宗氏は倭寇取締りとして200石の禄を食み、ことを荒立てずにすませるため「天下を統一したから中断している通信使を派遣してほしい。」と曲げてつたえた。秀吉は再三にわたり李王朝に入貢をうながしたが、朝鮮はこれを拒否した。李王朝は、明を盟主としてすでに入貢をしており、日本の王の部下である関白に対する入貢は受けいれらるものではない。秀吉は出兵の準備をはじめた。
 1591年李舜臣は全羅左水使(海軍司令官)に抜擢され、朝鮮南部に赴任した。必ず秀吉の倭軍が大挙してやってくるだろう。時期は近い。彼は、板屋船と亀甲船の戦艦と武器を整備し、水軍の猛訓練をはじめた。そして軍糧米を貯蔵した。
1592年4月12日の夕方プサンに秀吉が15万の軍隊の先駆けとして700隻の大船団で押し寄せた。プサン鎮と東莱城では朝鮮軍が奮戦したが、ついに陥落した。戦争になれた秀吉の倭軍は三つに分かれて平和になれた朝鮮軍をかんたんに破って行く。漢城(現ソウル)を落としいれ北上し、さらに平城も占領し、威鐘道地方まで侵入する。朝鮮朝廷はやむなく義州へ落ち延びる。そのとき、李舜臣将軍は初戦わずか80隻ほどの軍船をひきいて、倭郡の水軍後破ってゆく。亀甲船とよばれる軍船は鉄で甲板をおおったハリネズミのような形で、鉄砲も火矢も受けつけず、その針のために乗り移ることも難しい。船首と両舷の三箇所に大砲を備えて、水夫が甲板のしたで船をこぐ戦艦。倭軍にとっては、亀甲船は恐怖である。入り組んだ朝鮮の海岸を自由自在に使う李舜臣将軍の水軍は連戦連勝であった。朝鮮の義勇軍、明の援軍が内地では戦い、水軍が九州からの物資補給経路を絶たれたことが致命傷となった。秀吉はやむなく講和を申し入れた。
 李舜臣将軍が1年ばかりの準備期間で、新型船を造り、作戦を練り、兵糧米備蓄の備蓄をしながら軍事訓練もしていたとはおもえない。早くから、秀吉の動きと日本の水軍の情報網を集め、朝鮮南部の地形や汐の満ち引きまでつかんで作戦を練っていたはずである。組織の育成から新型艦の研究開発から大量増産、相当に能力の高い指揮官でなければできない。彼は、見せかけの講和時に、讒言による左遷をされる。彼は、再びの開戦に呼び戻され、負傷し亡くなってしまうのだが、その死は伏せられ、秀吉の死亡とともに倭軍は朝鮮を撤退する。
(写真はビルの谷間のインスンシン将軍像、足元にはコブク船模型がある。)