「従軍慰安婦」

odk2004-09-25

2004年9月8日(水)午後0時50分

日本軍が従軍慰安婦という女性を連れていたことは知られていた。しかし、社会問題とされたのは1990年代からだ。1988年ソウルでオリンピックが開かれたころ、ようやく民主化がされ、韓国民が自由に発言ができるようになった。
 1990年5月 韓国の女性団体がノテウ大統領の訪日に合わせて「挺身隊」問題の謝罪と補償を求める共同声明を発表した。
 1990年6月6日 参議院予算委員会の政府側答弁で「従軍慰安婦は民間の業者が連れているので、調査をするというのはできかねる。」と発言している。
 1991年12月3日 3人の韓国元慰安婦が日本政府の謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴した。
 1992年1月11日 吉見義明さんが従軍慰安婦の日本軍関与を示す6点の証拠を発見し、新聞発表をした。
 1992年1月12日 加藤紘一官房長官が日本軍の関与を認めた。
 1992年1月17日 宮沢喜一首相が訪韓し、日韓首脳会談で公式に謝罪した。
 1992年8月 4日 日本政府は資料調査と韓国人元慰安婦からの聞き取りにより調査結果を発表した。
 1.慰安所の設置・管理・慰安婦の移送には日本軍が直接あるいは間接に関与した。
 2.慰安婦の募集には、甘言・強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲が直接これに加担したこともあった。
 3.慰安所での生活は強制的な状況の下で痛ましいものであった。
 4.朝鮮半島出身の慰安婦の募集・移送・管理なども甘言・強圧による総じて本人たちの意思に反しておこなわれた。
 5.従軍慰安婦問題は当事者の国の関与の下に多くの女性の名誉と尊厳を傷つけた。
 6.元慰安婦の方々には心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
岩波新書 吉見義明著「従軍慰安婦」を参考にさせていただきました。)

 2004年のこのとき、わたしは、「日本政府の謝罪は済んでいいるのではないのか?」「だまして連れてきて、強制的に兵の相手をさせて、従軍慰安婦と呼んでいいのか?」と二つの疑問があった。しかし、ここでは聞けなかった。

 結局、日本に帰ったあと、「旧日本軍の性的被害を支える会」の例会に行き、前田朗さん(東京造形大教授。刑事法)の国連人権小委員会の傍聴報告のあとに尋ねた。
odk「従軍慰安婦問題は日本政府の謝罪済みなのではないですか。」
前田「国会決議などの、正式文書としては謝罪はされていないのです。首相の発言はイン・マイ・パーソナル・フィーリングといったかな。国際法違反、戦争犯罪としての罪の承認、謝罪、賠償はされていないのです。」
odk「賠償問題は日韓により一括補償済みなのではないのですか。」
前田「1999年国連の人権小委員会で軍性奴隷は国家間の取引では解決せずに個人の戦争責任は残るという報告がされています。日本はこの原則に従っていないのです。それが、強制力を持たない事から、補償がされていないわけです。」
odk「従軍慰安婦という呼び方でよいのでしょうか(前田さんのレポートにはSexul Slavery by Japanese Armyとあった。)。」
支える会「この言葉で使われてきているので、はじめは仕方がないとおもいます。しかし、被害者の立場を考えて、私たちが使うことはよくないでしょう。代わるべき言葉がなく困っていますが、呼び方にこだわってもはじまりません。ただ、私たちがこの問題の展示をしていると昔、戦争で兵隊だった方が、あった、あったと懐かしがるんです。自分が相手のことを傷つけているという気持ちがないんですね。」
前田「よく戦争だから何をしてもしかたがないと思ってみえる方がいる。戦争中の行為についても刑法も国際法も違反行為は処罰の対象になることを忘れみえる。北朝鮮の拉致も刑法違反の条項があるんです。」

 インターネットで「従軍慰安婦」、「ナヌムの家」とキーワードで検索すると「どの国でもやっていることだ。」「すでに謝罪済みだ。日本は萎縮してしまっている。」読んでいて混乱してしまい、同行のかっちゃんには問題の流れを話すことができなかった。現場をみて自分で判断してもらうしかなかった。
(写真前列は、日本大使館前の水曜集会での元慰安婦(ハルモニ)たち。後列は神戸女学院の学生たち)