ナヌムの家ヘ

odk2004-10-13

2004年9月9日(木)午前10時
地下鉄を何度も乗り換え、カンビョンの駅からバスに乗りました。乗るときにバス賃前払いなので金額は聞かなくてもよいのですが、下りるバス停をハングルで聞かなくてはなりません。隣の乗客に「クアンジュ?」と言って地図を見せましたら下車停を親切に教えていただきました。それでも、聞いていた1時間より早くバス停に着いたので、市内に入ったことを教えてくださったと勘違いして、市庁舎に気づいたときには遅く、ひとつ乗り越して降りることになりました。バスを降りてからタクシーを捜します。ソウルを離れるとタクシーの数も減り簡単につかまりません。運転手に「イルボンです。ナヌムチプ。」と日本人であることと行き先を伝えてようやくナヌムの家に着きました。

 田園のなかにハルモニの暮らす宿舎と訪問者の泊まる棟、歴史館からなるナヌムの家です。静かな癒しの音楽が流れて、ナヌムの家で亡くなったハルモ二のお墓やハルモニの彫刻などが屋外にあります。最初、滞在中の関西からきたカップルに会いました。彼は「在日」ですと自己紹介ををした。「以前、短時間で訪問して、ゆっくり来てみたかったので、彼女を誘って来ました。」日本人スタッフでカメラマンでもある矢島さんから「ようこそ、ゆっくりしていってください。お急ぎでなければ、午後日本のどこかの大学がみえるのでハルモニの話をいっしょに聞かれててはどうですか。」と誘われた。私は二度目のナヌムの家であるが、前回、日本人スタッフがみえなくて、案内の韓国の方から「ハルモニは過去の話はつらいのでこちらからは声をかけないほうがよい。」と聞いていたので、お話が聞けることは意外でした。

 午前中は歴史館をゆっくり観ました。ナヌムの家歴史館はそれほど大きな博物館ではありませんが、西大門刑務所歴史館のような「あからさま」な展示ではなく、深く静かにハルモニたちのつらい悲しみが伝わります。建物はコンクリートで、地下に降りる形でまわっています。版画、油絵、写真、彫刻、芸術性の高い作品で戦争の非道を表現しています。そのなかでもハルモニの描かれた絵は、衝撃的です。私は存命中のキムスンドクさんにもお会いしていたのですが、うかつにも展示画の作者がキムさんのものとは思い至りませんでした。それは、キムさんのやさしそうなお顔と激しい絵画の作者を結びつけることができなかったからです。絵葉書も売られていますが、あれだけ大きなキャンバスに性と命、ためらうことなく描ききるのは、どれだけの体力・精神力なのかと感嘆します。キムさんの心の地獄は、そのまなざしから想像ができませんでした。

 お昼をハルモニたちと食べました。お昼は5000ウォンの予約制でカン・イルチュル・ハルモニの作った餃子スープで、滞在中のカップルとハルモニたちといっしょに食べました。

 そして、午後、イー・オクソンさんの日本軍の性奴隷として犠牲になった時代の話を大学生たちと聞きました。イーさんがハングルで話し、矢島さんが日本語に通訳をしながらですが、矢島さんの話しですと、やはり当時のことを思い出すことは非常な苦しみを伴い、見た目もきつい表情に見えました。

  午後2時15分ぐらいから、ずっと中国に連行されていたイー・オクソン ハルモニの従軍慰安婦時代の話を聞いた。金城学院大学の教授が12名の女子学生を連れてナヌムの家を訪問し、イー・オクソンさんの話しを聞く場所に同席させてもらい、一緒に話を聞いた。

 イー・オクソンさんは、プサンで生まれ家が貧しく15歳で他家へ下働きとして出された。手つきが悪いと仕事はうまくいかなかった。他家で働くのが苦しくて逃げ出したこともあったそうだ。うどんやだった他家の主人は、ウルサンの居酒屋へ私を内緒で売られてしまった。その居酒屋でもひどく扱われた。

 ある夕方の5時ごろ日本人と朝鮮人の二人に拉致され停めてあったトラックに放り込まれた。そのトラックには幌がかけてあり中に5人の少女がいた。私は返してくれと言ったのに猿轡をかまされて連れて行かれてしまった。トラックから列車に乗り換えさせられて行き先のわからないまま連行された。その列車には兵隊が乗っていた。トマンコウトムンに連れて行かれ、他の5人と分けられた。そして、コンクリートの冷たい床の上に放置された。その冷たさは、今も私の体に冷たさとして残っている。トマンコウトムンに連行されていたのは14歳から17歳の少女6名だった。6名は2名と4名に分けられ、私は2名の方に入り、その2名は、また、別のグループに入れられた。

 そしてエンキツという所で(性奴隷の)仕事をさせられた。食事は蒸しパン1個しか与えられていなかった。 そこは、軍の飛行場の中で、電気を流した鉄線の中で(性奴隷の)仕事をさせられていた。私は、空腹で寒くて、見張りに殴られながら(性奴隷の)仕事をさせられた。兵隊は、いつも私たち少女を草むらに連れて行って強姦しまくっていた。飛行場の鉄線に触った犬は丸焦げになった。私は触れば死ぬのだなあと思った。兵隊に不服従であったり、(性奴隷の)仕事の手つきが悪いということで殴られて傷だらけで生活をしていた。私が何度も家へ帰りたいと言って、そのたびに殴られた。

 次に連れて行かれたのが従軍慰安所だった。慰安所の主人から着物や下駄を支給されたが、これは後から借金になっていることがわかった。主人は「たくさんの兵隊に体を使って稼いで、借金を返せば国へ帰られるんだぞ。」といった。慰安所でも食事らしい食事が与えられなかった。3年間も白いご飯が食べられなかった。

 同じ慰安所で働く慰安婦でも慰安婦が日本人だと兵隊は乱暴にしない。朝鮮人には兵隊は軍刀で脅して性行為をさせようとする。自分たち朝鮮の慰安婦は14歳から17歳で性行為を知らずに連れてこられて、無理に性行為をさせようと刀で脅す。1日に30人から40人の兵隊の相手をさせられた。刀で脅しても相手をしない(朝鮮)慰安婦は殺されてしまった。朝鮮慰安婦は殺しても人間として扱われなかった。日本では朝鮮慰安婦は金を稼ぎに来ただけだと言う人もいるが、お金なんて1セントももらっていない。もらったのは性病だけだった。自分たちは自発的に行ったのではない。拉致され、連れて行かれたのだ。病気や餓死や殺されて、たくさんの女性が慰安所で死んでいった。

 エンキツには3つの部隊があり、週末の慰安所には、兵隊がずらりと列を作って来ていた。(朝鮮慰安婦は)慰安所で死なないと生きられない。(私は)逃亡を試みたこともあった。すぐ、つかまって慰安所に連れ戻されてしまった。連れ戻されて、殴られても、私がもう逃げないと言わないので、また殴られた。それでも従わないので、憲兵隊を連れてきて体罰ではなく、殺すのが目的ではないかと思うほど痛めつけられた。そのときの傷が、私の体の肩と足に刀傷で残っている。そして耳も、今でもよく聞こえない体にされてしまった。体が病気で悪くなっても薬は与えられず、病院に連れて行かれたこともない。本当に日本人は悪い。日本兵は、刀で私たちを刺しても、そのまま抜くのではなくて、えぐるように抜いていく。私たちは死んでもかまわないという扱いだった。

 ある日、空爆が始まり、軍人たちだけ逃げて、私たちは山の中に置き去りにされてしまった。私たちは知らない国で放り出されて、山の中をさまよった。私たちは戦争が終わり、解放されたことも知らず、犬が這うように山の中をさまよい、山を降りていった。日本兵は食べるものがあったのに、私たちは何も与えられず、飢えていた。突然、置き去りにされたので、食べ物を求めてエンキツの市内に入っていった。私たちは集団で逃げると全員捕まってしまうので、分かれてばらばらに山村に入っていき、暮らし始めた。そして、58年ぶりに韓国に帰ってきた。

 しかし、帰ってみても知っている人は、すでに亡くなってしまっている。
 日本人から「日本の政府のために大変でしたね。」と声をかけてもらったことはない。
 日本には、私たちの記録があるはずだ。現在、韓国には百数十名しか旧慰安婦が生き残っていない。日本が謝罪しないのは、私たちが死んでしまうのを待っているようにしか思えない。私たちは80歳、90歳の高齢になってしまっている。

 日本では、朝鮮人慰安婦が自分から進んで稼ぎに行ったといっているが、朝鮮の娘たちには慰安所がどこにあるかわからない。慰安所という言葉も知らない。どのようにしたら進んで働きに行ったと言えるのですか。

 日本政府は謝罪をせず、私たちが死ぬのを待っている。
みなさんは、ここにどんな気持ちできたのでしょう。
私の立場になって、どのような気持ちがするのかを教えてほしい。
あなたたちは、私に何をしてくれるのでしょう。
このように話すことは、私にとって恥ずかしくて、非常につらいことなのです。

 日本の女子大学生たちも・私たちもイー・オクソンさんの問いに一言も声を出せませんでした。

 そしてイー・オクソンさんは、日本を恨むよりも日本が過去をきちんと見つめ直して、補償をし、韓日が仲良くなってほしいと結んでいました。小泉首相の発言や行動がニュースで韓国に流れているのをみると日本がまた、戦争をはじめるのではないのかと不安で仕方がないそうです。

(午後2時15分ごろからの話は、通訳を通して、途切れ途切れのもので、終わりが午後3時半を過ぎた。拉致され性奴隷とされ、その加害国民に、一番つらい話をあからさまに語らなければならない。)