西大門刑務所歴史館

odk2004-09-26

2004年9月8日(水)午後2時
 水曜集会が午後1時過ぎに済むと近くの食堂で集会参加者がいっしょに昼食をとった。メニューが読めないのでおまかせしたら、ソルンロタン(牛の足、ひざ、脚骨などをじっくり煮込んだスープ)がでてきた。それほど味は濃くないが、しみじみおいしかった。チラシをもらった朴さんから日本語で「あなたは宇部をしっているか。」と尋ねられた。「山口県ですか。」「そうだ。その山口県宇部の炭鉱に多くの朝鮮人が連れて行かれて、日本人では危なくて、掘れない海の下の炭鉱だ。事故で多くの朝鮮人が死んだ。日本は誰も謝っとらん。韓国のテレビを連れて行って、ちゃんと謝罪してほしいといったんだ」と宇部市の海や市役所の中の写真を見せていただいた。

 水曜集会のみなさんとはそこで別れて、私たちは植民地時代の刑務所が博物館となっている「西大門刑務所歴史館」に向かった。朴さんはタクシーがよいといわれたが、地下鉄で1駅離れた独立門駅で降り、道に少し迷った。名古屋の韓国観光公社でいただいた歴史館の日本語パンフレット(A4変形カラー45ページもある分厚いもの)を見ながら中をまわった。大人1100ウォン

 1908年京城監獄として建てられ、植民地支配後、名前を西大門監獄から西大門刑務所に名を変え、民族独立運動政治犯を投獄した。拷問、飢餓による獄死、処刑がされた。獄舎は15棟あったが、そのうち7棟だけを原型どおり保存して1998年歴史館として開館した。当時の拷問と獄中生活が分かるように壁棺、独房など実際に中に入れるように展示している。

 拷問室については、棒で殴り、逆さまに吊り下げたり、鼻や口に唐辛子水を入れる。手足を縛って全身を熱いコテで焼く、電気でしびれさす、つめの間に串をさす、女性には性的な辱めを行うなどマネキンを使って音入りで再現をしている。

 柳寛順は朝鮮のジャンヌダルクともいわれている少女で、1919年3月1日に起きた独立万歳運動、梨花学堂に休校令が出されると、故郷に帰って4月1日天安並川のアネウ市場で独立万歳運動を主導した。そして、逮捕3年の刑を受け、1919年西大門監獄に移され、京城復審裁判所で法廷侮辱罪が加わり7年刑を宣告された。それでも監獄の中で毎朝、毎晩独立万歳を叫び
、そのたびに拷問を受けたが、意思をまげなかった。1920年3月1日李信愛などいっしょに収監されている者と獄中デモをおこなった。その後、柳寛順は地下の独房に隔離され、拷問と栄養失調のため1920年10月12日獄死した。このような人たちを殉国烈士と呼んでいる。

 再現はそのとおりなのだろうが、センサーで突然、拷問室が明るくなり、悲鳴が聞こえるのは怖いです。かっちゃんに先に歩いてもらった。(写真は西大門歴史館の入り口)